1939年10月18日。ついに戦争が始まった。戦闘機の数で勝るフランスはドイツ上空の制空権を勝ち取り、戦術爆撃機の支援のもと安心して進撃を開始することができた。この空中戦を見越して早くから戦闘機の増産を進めた政策が正しかったことが証明された。緒戦は順調だ。
アルパイン線はいまだ建設途中だが、突出部は優先してレベル10にした |
東部戦線でも激しい戦いが繰り広げられているらしく、ドイツがソヴィエトのキエフを陥落させたとの知らせが入る。はたしてコミンテルンは戦う気があるのだろうか? それともナポレオン戦争時代の冬将軍の夢でもみているのだろうか?
一方フランス軍は順調に駒を進め、ライン川の東岸を制圧するとヴェーザー川に迫る。ドイツ軍はフランクフルトの市街地に立てこもり激しく抵抗したが、11月29日、フランクフルトは陥落した。
12月1日。またもや妙な報告が委員会にもたらされる。ドイツが今度はデンマークに対して宣戦を布告したという。デンマークを通じてイギリス軍がヨーロッパ本土に上陸し、北方から攻め寄せることを恐れたのだろうと推測された。しかし不実なアルビオンがみずからの兵士の血を流してまで自由のために戦うことがあるだろうか。現に今もイギリスはフランス領内の軍隊通行許可を要求しておきながら、ヨーロッパ本土には一兵たりとも援軍をよこしてくる様子はない。どちらにせよ、ドイツ軍は北方へ兵力の一部を割かざるを得なくなり、西部戦線の守りがますます薄くなる。フランス軍はすでにベルリンを目の前にうかがえる位置まで前進していた。
12月末。ヴェーザー川を越えたフランス軍はエルベ川に迫る。その際、機甲師団を含む数個師団を包囲殲滅することに成功した。もはや戦いの趨勢は明らかであった。マジノ線を守っていた師団が前進を開始し、戦線を押し上げる。中立を確約したスイスには厳として国境を閉じさせ、マイン川を南下した部隊とマジノ線駐屯師団が共同し、ドイツ軍数個師団をアルプスの奥に追い込み殲滅する。北方ではフランス軍はハンブルクを抑え、デンマーク侵略に向かったドイツ軍部隊の帰り道をふさぐ。
しかし1940年1月10日、戦況はにわかに雲行きが怪しくなる。中国を制圧し傀儡政権を打ち立てた日本がついにファシスト枢軸に加入し、ドイツの同盟国として対仏・対英・対ソ三陣営相手の戦争に参戦を宣言したのだ。フランス領東南アジアは守るものがいない。やすやすと奪われては自由と平等の名のもとにある海外領土市民らに示しがつかないではないか。東南アジア特有の厳しい地形が彼らの進軍を妨害し、その間にイギリスとインドが南から、ソヴィエトが北から共同して日本軍の進撃を阻んでくれることに期待するほかはなさそうだ。
普通の国なら陸ドクは真っ先に研究するべきですが、フランスは普通じゃないのです(デバフがある)。対独戦が終わりそうな今頃になって研究しても……感は否めません |
北方を制圧し、フランス軍はついにエルベ川下流にまで到達する。もはやベルリンは目前だ。2月末。機をみた委員会は第1軍ジュアン将軍に至高命令としてベルリンへの突撃を命じる。第1軍隷下の自動車化部隊と戦車部隊は、戦線を広く維持するドイツ軍の意表を突き、その一点を目がけて一斉に進撃を開始する。そして……
1940年3月8日、ベルリンはフランスの手に落ちた。カエサルと化した将軍あがりの皇帝が共和国を破壊したのちに成した偉業が、実に134年の時を経て、今度は生まれ変わったばかりの共和国の手により再びなされたのだった。
次章: 法の即位、権利の復活、正義の反撃
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