フランスは外交ラインを通じて正式にライン川左岸の返還を要求したが、ドイツからの返答はなかった。フランスはドイツ駐在大使を召還し、最後通告の期限である4か月後に備える。もはやドイツの答えは明らかだった。戦争だ。
ようやくWW1デバフが消え、ドクトリン開発が可能となる |
ドクトリンは機動戦に変更 |
軽・中戦車のみを開発し、重戦車ツリーは無視 |
フランスのように有能な将軍が少ない国は戦闘幅を40まで増やして師団数を減らし、ドイツのように将軍が豊富な国、あるいはひとりの元帥にすべてを任せるような国は支援大隊の効果を上げるために戦闘幅は20にとどめるのがいいのではないかと考えます |
6月。ドイツはフランスの領土要求に対する返答として、フランス固有の領土であるアルザス・ロレーヌの「返還」を要求しはじめる。いい度胸だ。さらにドイツはルクセンブルクの中立を犯し、フランスに対する予防措置として併合した。もはやこの先には戦争以外のなにも起こりえない。フランスはただその時を待つのみだ。フランスの覚悟は変わらなかった。
7月、最後通告の期限が刻々と迫る一方で、東方から驚くべき知らせが入る。ソヴィエト連邦がフィンランドに宣戦布告し、これに抗議したドイツに対し、不可侵条約の破棄を通告したのだ。この恐るべきソ連の変わり身。やはりコミンテルンには信頼がおけない。「戦時下」である今、委員会の改変こそ行われなかったが、もはや親ソ派の共産党書記長モーリス・トレーズは名目上の地位を保つのみであった。
プレイヤーの知らぬところでドラマが発生していた。このスクリーンショットは残っていたが、対独戦の準備で頭がいっぱいで状況を確認していませんでした |
ユーゴスラヴィアを降伏に追い込んだイタリア軍がフランス国境に集まる。宣戦布告の時宜を誤ってはいないか? いまだアルパイン線が完成していない状況でこの戦力差は不安が募る。幸いフランス上空の制空権を守るだけの戦闘機はある。委員会はアルパイン線を固める歩兵・山岳歩兵師団を率いるウェイガン元帥に対し、仮にイタリア軍が動いても、山岳から一歩も動かず守りを固めよと通知を下した。
8月。最後通告の期限を過ぎてもドイツからの回答はなかったが、アルパイン線は完成せず、国境のイタリア軍にも動きはない。このままではフランス国境は南方から突破される。最小の犠牲で最大の戦果を得るために、フランスはぎりぎりまで待つ。
10月。どうやらドイツはソヴィエトとの戦端を開いたようだ。あるいはどちらが先か。もはや彼らの外交関係はコミンテルンとの関係を断ったフランスにはうかがいしれなかった。仏独国境に控えていた敵兵の姿がまばらになっていく。今こそフランスが攻めに出るときではないか。委員会は具体的な戦略策定を開始した。
まずアルパイン線とマジノ線は防衛戦の達人であるマクシム・ウェイガン元帥の指導のもと、最小限の兵力で徹底して守りを固める。その間に再編を経て強化された第1、第2、第3軍からなる北方戦域軍がドイツ領に侵攻するのだ。機動部隊からなる第1、第3軍はフランクフルト、ライン川の支流マイン川からプラハの山岳地帯にかけて攻め寄せ、ドイツ軍を南北に分断して道を切り開く。その道を第2軍の歩兵部隊がまっすぐ進む。目標はベルリンだ。
戦略は固まった。軍隊は各々の配置についた。国境のレーダー施設の整備と戦闘機の配備も終わり、制空権をとる準備ができた。アルパイン線の構築もほぼ完了した。もはや人事は尽くした。今こそ天命を勝ち取るときだ。1939年10月18日。フランスはドイツに対し、宣戦を布告した。
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