2016年9月24日土曜日

HoI4: フランス AAR 第2章 抵抗を排して

目次

1936年5月。総選挙は人民戦線派の圧勝であった。急進党が議席数を減らした一方で、社会党が第一党にとって代わった。しかしもっとも注目すべき変化は共産党の躍進だろう。かつては12議席しかもたなかった共産党は、今度の選挙をもって第二党にまで勢力を伸ばすこととなった。
実質ラッキーイベント
人民戦線派の勝利、特に共産党の躍進により、人民の望みは明らかとなった。国内外のファシストに対抗する勢力を築くのだ。社会党レオン・ブルムを首班とする人民戦線内閣は5月、人民の求めに応じ、軍需工場の早期動員を宣言した。フランスは着々と力をつけつつある。目覚めの日は近い。




NFは左翼ルートへ
人民戦線の勝利はまた、労働運動の活発化をうながした。労働者はストライキに走り、4月までには数えるほどしかなかったストライキが6月には参加者が180万人もの規模に及んだ。これは商工業にたずさわる労働者の総数の3割にも及ばんとする数である。その裏には共産党の指導があった。ブルムは資本家と労働総同盟の代表を招き、マティニョン協定として知られる労使協定を結ばせることでこの騒動を収めた。

イベントは常に共産党の支持が伸びる選択肢を選ぶ
6月。隣国スペインでファシストが人民戦線政府に対して反乱を起こす。ファシズムの大過はついにスペインにまで達した。もはやヨーロッパでファシストに対抗できる勢力はフランスとソヴィエトのみ――ラインラント進駐事件の対応を鑑みても、イギリスの弱腰は明らかだ。しかし、共産党を含む人民戦線派の強い要望にもかかわらず、指導力に欠くブルム内閣はスペイン内戦への不干渉を唱えた。フランスは友愛の精神をもって隣人を救うべきではないのか。人民戦線左派からは強い不満が噴出した。
それに対し、ブルム内閣は国内政策として、労働法のさらなる改定――週40時間労働制、年次有給休暇制などの制度化――により労働者の支持を取り付けつつ、他方では「極右同盟」と呼ばれる極右・ファシスト政治組織を解体する。ファシストの勢力を抑えるには必要な措置であったが、しかし右の端を抑えることはできても、社会党・人民戦線の支持基盤と重なる左の端――共産党の勢力拡大を止める手立てはなかった。


労働法改定後、フランスの経済は悪化の一途をたどっていった。それは主にドゥーメルグ時代の経済的失策によるところが大きかったが、左派の伸長を嫌う資本の海外逃避もフランス経済に強く影響していた。ブルム内閣は銀行や重工業の国有化を進めつつ、マティニョン協定を破棄することで、工業生産力の向上を目指し、資本家との妥協を図りはじめた。迷走する社会党政権はついに労働者に対する裏切りを行ったのだ。

10月革命。下選択で回避。前プレイで上を選んで革命を起こしたところ、見事に内戦に負けたので……
10月。パリで労働者らがマティニョン協定撤回に反対する大規模なデモを行う。共産党内にはこの騒動を革命につなげようと考えた勢力もあったが、内戦に発展することを恐れた指導部によって黙殺される。デモ隊は軍隊との衝突により多数の負傷者を出したのちに鎮圧される。だが、これが革命ののろしとなった。11月には軍隊から大規模な集団的脱走が発生し、共産党の地下組織に協力する。11月末、勝利を確信した共産党は国民投票の実施を要求する。その内容はパリ市庁舎(オテル・ド・ヴィル)での赤旗掲示――すなわちフランスが国家非常事態にあることを宣言し、議会政治を停止、プロレタリア独裁による統治を要求するものだった。


共産党の背後には確たる武力がある以上、社会党にはもはやなすすべはなかった。流血の革命を回避するためには、もはや国民投票に一縷の望みをつなぐのみであった。そして、国民投票が行われ……

国民団結度を気にしてはいけない
無血革命が成った。

次章 祖国は危機にあり

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