1936年。フランスは混乱していた。国際情勢は緊張し、悪化の一途をたどる。隣国ではファシストが勢力を着実に固めていく。イタリアは国際社会の反発を無視してエチオピア侵略を強行。ドイツはヒトラーの独裁下、ヴェルサイユ条約をなかば無視して徴兵制を復活、軍備拡張に走っていた。
一方でフランス国内政治も安定とは程遠い。ドゥーメルグの右派挙国一致内閣の瓦解後、「パンと自由と平和」をスローガンに成立した左派大衆を基盤とする人民戦線は続々と勢力を伸長させ、不安定な急進党政権を土台から揺るがしていた。他方では、ドゥーメルグ内閣の失敗で議会政治に対する信頼をなくした右派やブルジョワジーはもはや選挙に頼らず、労働者の革命を恐れるあまり他国のファシズムに期待するありさまであった。19世紀の昔から伝統的に反ドイツ姿勢を保ってきた右翼も今ではヒトラー独裁下のドイツに対する融和政策を主張する。彼らの圧力のもと、急進党政府は強硬な対伊・対独政策をとることができなかった。
1936年1月には国防大臣だが2度の首相経験があり、政府の実質的な顔であるエドゥアール・ダラディエ |
フランスの現状を確認しよう。1936年1月、歩兵の充足率は深刻な状態にあり、小銃が圧倒的に足りていない。しかし小銃を作りたくも、現在稼働中の軍需工場は6ユニットのみという悲惨な状況だ。幸い民需工場が36と十分な数があるので、まずは軍需工場の増設から始めよう。これぐらいなら独伊を刺激することなく、また対ファシスト融和派の反対を受けることもあるまい。国防大臣エドゥアール・ダラディエの指導のもと、軍需工場の大増設が始められた。
沿岸は造船所を建てる必要が出るかもしれないので、とりあえず内陸部に全力で軍需工場を建てる |
政治的にはとにかくこの混乱を収め、フランスを団結させねばならない。国家の方針(National Focus)は政治改革路線と決まった。
36年3月。ドイツ軍は突如としてライン川を渡り、ライン左岸に侵入した。これはライン川沿岸より西を非武装と定めたヴェルサイユ条約に対する明白な違反行為だ。これに対し、フランスはなすすべもなかった。いまだ充足の及ばない軍備はマジノ線およびアルプス国境防衛のためだけにあった。国内情勢もいまだ混沌としており、戦争となればファシストや共産主義者らによる抗議運動が内乱に発展する可能性もある。また、イギリスの支持もあてにできそうにない。ドイツ軍と戦うことはできない。決断力に欠ける政府はただ外交的抗議を申し立てるにとどめた。ああ哀れなフランスよ、汝が力はいつ取り戻されようか。
だが、ドイツは後戻りのできない一歩を踏み出した。ならば、フランスも同様に前に進まねばならない。もはや条約はないも同然のものとなった。ならば、フランスもそう考えてことに臨もう。人民戦線左派からの強い要請にもとづき、フランスは国際政策の抜本的見直しに取り組みはじめた。
次章 抵抗を排して
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