イギリス、インド、アフリカはこうして人類連合の傘下に加わった。今やフランスの工業力は1567、世界中の工場がフランスのもとにあるといっても過言ではない。海軍の艦船数においても300近く、今ではアメリカを凌駕するほどだ。
こうしてユーラシアに生まれた一大新秩序に対し、おおやけに敵意を向けることのできる国はもはや2か国のみだった。アメリカ合衆国とソヴィエト連邦だ。だが、民主主義勢力の第一国家となったアメリカは相互大陸の不干渉を唱えるのみで、ユーラシアの人類連合に積極的に干渉しようとはしなかった。しかし問題はコミンテルン・ソヴィエトだ。これほどの大国を前にしても、ソヴィエトはひるむことなくトルコ侵略を強行している。トルコは戦略的にもヨーロッパとアジア・アフリカをつなぐ架け橋となる位置だ。フランスはソヴィエトにトルコからの撤兵を要求するが、かえってきた返事はフランスの英印併合に対する抗議であった。戦争だ。
また、航空戦力においても戦闘機の数のみならず、すでにジェットエンジンを搭載した最新型の航空機の配備が始まっている。勝算は十分にあった。
戦略はこうだ。まず緒戦でコミンテルンの属国である東欧の小国を一気に併呑する。それと並行し、フランス第一の精鋭である第1軍と第3軍を中心とした主力のヨーロッパ戦域軍がウクライナ方面からモスクワおよびスターリングラードを目指して侵攻する。またフィンランドを併合したソヴィエトを北方からも攻撃し、レニングラードを攻略してヨーロッパ戦域軍との合流を目指す。アジア方面ではコンスタンティノープルを奪われ傀儡化されたトルコに進軍し、この地に残るソヴィエトの兵を隔離し殲滅する。それより東のアジアではなるべく少ない兵力で守りを固め、ソヴィエトの兵力を引き付ける。以上だ。
共産主義者として正しいのはどちらであるか。分派とは決着をつけねばならない。1948年6月3日。フランスはソヴィエトに宣戦を布告した。
フランス軍は緒戦からソヴィエト赤軍を圧倒し、7月中にはヨーロッパの傀儡国を殲滅し、80個近い師団の包囲に成功した。これはまさしく快挙であった。南欧戦線の戦況は一気にフランス側に傾いた。
フィンランドでもトルコでもフランス軍は順調に戦線を押し上げていく。
8月。ヨーロッパ戦線ではウクライナにあたる地域の制圧が完了した一方、4日、トルコが降伏。トルコ方面のフランス軍は南からスターリングラードをうかがう。
また、南欧戦線で包囲されていた80個師団の包囲殲滅が完了し、ソヴィエトの戦傷死者数はフランスのそれの10倍もの数となった。もはや大勢は決した。フランス軍は全面攻勢に移る。
フランス軍は9月、レニングラードを占領。その後も順調に攻勢を続け、10月11日、ついに首都モスクワを占領する。そして12月31日――
コミンテルンはフランスの前に膝を屈した。
次章: 最後の戦い
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